項羽と劉邦のあらすじや登場人物と時代背景

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『項羽と劉邦』は、司馬遼太郎氏の小説や横山光輝氏の『史記』を初めとして多くの創作作品によって知られています。

その人気と知名度は『三国志』に次いで2番目でしょう。

 

 

祖国復興にために戦った若く誇り高き武人・項羽と天運に乗じて卑賎の身から立ち上がった壮年の男・劉邦による二英傑の戦いと彼らの性格の比較は歴史マニアや学者だけでなく、古くから実業家やスポーツ選手も愛好してきました。

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一般的に、項羽は「臣下の意見を聞かず同士との約束を破り独断専行が過ぎた結果、自滅した」、劉邦は「臣下との絆を重んじ謙虚であったために天下に立つことが出来た。」という解釈がされています。

 

 

項羽と劉邦は元々秦打倒という共通の目的を持った仲間でした。

 

しかし、2人は目指す先の違いからやがて対立するようになるのです。

 

 

彼らの命運を分けた理由は何だったのでしょうか?

項羽と劉邦のあらすじ

2人の物語は、秦の始皇帝が亡くなり末子の胡亥(こがい)が宦官の趙高によって二世皇帝に祭り上げられたところから始まります。

 

始皇帝の死については秦の始皇帝の名前と歴史と暗殺の謎についてをご参照ください。

 

まずはこちらの動画をご覧ください。2分くらいの短い動画ですが、時代の雰囲気がわかりやすいですよ。

 

二世皇帝は趙高の言うままに政治を顧みず酒食に耽る一方で、各地で秦の急進的な改革に反発する動きが活発になっていました。

 

そんな状況で、労役のために徴発されていた農民の陳勝・呉広を筆頭に大規模な反乱がおこりました。

この反乱に乗じて、楚の会稽では顔役の項梁とその甥・項羽が挙兵し、豊沛では亭長に過ぎなかった劉邦が任侠の徒や地方の役人に担がれて挙兵します。

 

 

彼らが虚栄して間もなく、陳勝・呉広が秦に敗れて滅ぼされてしまいました。

 

項梁は秦打倒の大義名分を得るために秦に滅ぼされた楚の王の子孫で羊飼いをしていた心(しん)を懐王として擁立し、楚の復興を謳いました。

 

 

数々の諸侯の多くは懐王に仕える項梁に従うようになります。

この中に、劉邦率いる軍閥の姿もありました。

 

 

懐王は諸侯にある盟約をします。

「諸侯の中で、秦の都・咸陽に一番乗りをした者を関中王とする!」この言葉に、諸侯はこぞって咸陽一番乗りを目指します。

 

 

項羽は秦の章邯率いる精鋭軍に正面から立ち向かい章邯らが降伏すると将を残して兵達は生き埋めにしてしまいました。

 

こうして、次々と戦いを繰り返している間に、劉邦は鈍行ながらも着実に歩を進め、ついに咸陽に最も近づいている男になりました。

 

これに焦った趙高は劉邦に使者を送り天下を二分しようと持ち掛けますが、劉邦はすぐさま嘘だと見抜いて無視します。

趙高は焦って無理やり二世皇帝を殺し、新たに二世皇帝の兄の子とされる子嬰を諸侯と同列として「秦王」に即位させます。

 

 

子嬰が趙高を殺して間もなく、劉邦軍が咸陽に迫り秦は劉邦軍に降伏します。

こうして秦は滅亡し、関中王の座は劉邦のものになったかと思われました。

 

しかし、この知らせに項羽は激怒します。

今まで散々敵を打ち破ってきたのは他ならない自分、それなのにまんまと関中王の地位をかすめ取った劉邦は気にくわんとばかりに項羽は劉邦に対し兵を向けます。

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戦の達人である項羽の怒りを鎮めるために、劉邦は張良とたった2人で項羽の待つ鴻門にて様々な屈辱に耐えながら弁明をし、どうにかその場は命を長らえました。

 

それからすぐに項羽は命を保証していた秦王を勝手に殺してしまいまい意気揚々と楚に凱旋、そして懐王改め義帝を差し置いて自ら「西楚の覇王」を称すると自分が思うままに諸侯人事を行い、楚の他に各地に王を置き、劉邦を遠く漢中にまで左遷してしまいます。

 

 

一時は項羽の理不尽な仕打ちに怒り半ば意気消沈していた劉邦ですが、張良や韓信の活躍で漢中から西進を決意します。

 

項羽は邪魔になった義帝を殺し名実共に天下の頂点に立ちましたが、自分が留守の間に劉邦によって都の彭城を奪われてしまいます。

 

彭城を取ったことですっかり油断した劉邦に対し、項羽自ら出陣して都を奪還します。

これにより、一時は劉邦に阿附していた諸侯が再び項羽に阿附し或いはおこがましくも自立してしまいます。

それでも劉邦は自身が項羽を引き付けている間に韓信に裏切った諸侯を攻めさせ、徐々に状況を逆転させていきます。

そして劉邦は別行動を取っていた韓信と合流して垓下にて項羽をついに打ち破ります。

 

なおも楚に逃げようとした項羽ですが、そこに劉邦の追手が迫りついに31歳の若い命を自ら捧げることになりました。

 

 

項羽の遺体はバラバラにされて各々が劉邦に献上したことで止む無く恩賞にあずかることになりますが、項羽の首は後に劉邦によって「魯王」として葬られることとなります。

 

 

劉邦はこうして皇帝となり、中国全ての基礎となる『漢』を生むこととなるのです。

万里の長城

項羽と劉邦の時代

項羽と劉邦が生きた秦~漢の過渡期というのは、始皇帝による全国統一の政治がようやく始まったばかりの頃でした。

 

始皇帝が始皇帝になるまでについてはキングダムと中国の歴史!史実を解説!でお伝えしましたね^^

 

 

周王朝による何百年も続いた封建制の意識は未だ強く、秦の一党独裁を快く思わない者は大勢いました。

劉邦の名軍師・張良も元は韓の宰相の家系でした。

 

彼はかつて始皇帝暗殺を目論んで攻撃を仕掛けましたが、失敗に終わっています。

 

 

挙兵した諸侯の中で特に多いのは、韓・魏・趙・斉・楚とその実戦国七雄の血を引く者も多かったのです。

 

彼らにある共通点がありました。

それは、皆秦によって滅ぼされたこと、そして、秦よりも東方(隣接していた韓のみは別)に属していたことです。

特に、地理面に関していえば単に遠かったということではなく、始皇帝によって初めて布かれた郡県制が劉邦の天下統一を経て数十年かかっているのです。

 

完全にこの地域を中央集権に当てはめることができたのは、劉邦からおよそ60年経った武帝の時代まで待つことになります。

 

 

始皇帝の有名な行為の1つに天下巡行がありますが、これは要するに元は敵地だった地域に自ら赴くことで天下統一を改めて知らしめるという意味がありました。

 

始皇帝が時間をかけて回ったルートでは、特に大々的なものとして韓・魏・趙を通って斉・魯にて泰山を拝み最後に燕・晋と回って帰る北方ルートと、湘・越から呉・楚を渡って長江沿いに進む南方ルートがありました。

いずれも戦国七雄の地域です。

 

彼らがまだ完全には自分の統治下にはいっていないことは始皇帝自身が一番感じていたことでしょう。

何せ、度量衡の統一など、今までの生活指針が全て秦の基準に統一されてしまうのですから、今ほどボーダーレスな社会ではない当時では、一種の同化政策・文化否定です。

 

始皇帝はこれを漸進的ではなく急激にやってのけ、思想弾圧を行ったことからも批判を一身に集めることになり、やがて滅亡を早めることとなりました。

 

 

項羽と劉邦の時代は、まさにそんな旧態依然とした文化・政治と新進気鋭の統治の狭間で人々が必死にもがいていた時代なのです。

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項羽と劉邦の人物

どうしてめっぽう強かった項羽が敗れて、任侠で飲んだくれの劉邦が勝つこととなったのか。

 

 

古典的な議論ですが、2人の目指した道は方法が全く異なる上に境遇もまるで正反対であることから常に比較対象とされてきた項羽と劉邦。

 

 

私はこれに彼らのビジョンという視点から切り込んでみたいと思います。

 

 

まず、項羽は軍人出身で楚のために最期まで戦った名将・項燕の孫。

秦は祖国と祖父の仇であることから、とても憎んでいました。

 

最初は叔父の指示に従いながら戦では大活躍したもののあくまで大局的な戦略を立てるのは叔父、自分はただ勇将であることに半ば安心できる立場でした。

 

彼の最終目標は勿論滅ぼされた楚の復興とそれによる天下統一です。

 

 

叔父が殺されたからは自分が軍を率いることとなりますが、項羽は局地的な戦の勝敗には明るくてもそれ以外はまるで専門外、人心掌握は殊に苦手で敵味方に揃って恐怖しか与えられませんでした。

 

 

劉邦が約束通り関中王になると主君を立てた立場を利用して無理やり人事を刷新、自分を中心とした諸侯王による分割統治を行うようになります。

当然劉邦から反発を生むこととなりましたが、ある程度自由にしていた斉・魏の一族や成り上がりにとってはむしろ王とは好都合な身分でした。

 

察するに、項羽は自分が義帝を殺した後も決して皇帝を名乗ろうとしなかったことからかつての周王朝のような諸侯平等の社会を築こうとしていたのではないでしょうか?

 

実際、項羽はかつての楚の政治制度を復活させて秦の政治を否定するような行動をとり続けています。

 

しかし、彼はそれを実現するには理想家でしたし、直情過ぎたのです。

 

 

項羽の統治下ですら諸侯は項羽に完全には従いませんでした。

その上、義帝を殺して人望を失ったことから項羽の居場所は次第に無くなりつつありました。

 

そして垓下の戦いの時、彼に当初のような勢いはなく、諸侯は項羽の目指した諸侯平等の世とは完全に道を異にしてしまったのです。

 

 

項羽は始皇帝によって生み出された「統一」という流れに逆らって生き続けた、時代の異端児だったのかもしれません。

 

 

次いで劉邦ですが、元は農民の生まれで中年を過ぎてからようやく最下級役人の亭長になりました。

彼の前半生は伝説だらけで信憑性に乏しいのですが、彼が挙兵した時は元から劉邦を慕っていた無頼の徒や卑賎の徒、それに地方役人達が土台となったのは間違いありません。

 

彼らはさして戦闘経験もないので精強でなる秦軍を相手に正面切って戦っても勝ち目がないことはある程度わかっていました。

 

馬鹿正直に秦軍の相手をしてくれる項羽の存在はある意味で有り難かったことでしょう(笑)。

 

 

咸陽に一番乗りを果たした時は人気取りのために秦王を殺さずに自分の身近な領域のみで満足するようなポーズを取りました。

 

 

それから後、劉邦は項羽と一進一退の攻防を繰り返している間に韓信に別行動を命じて自分を裏切り独立した諸侯達を攻めさせるようにしました。

 

韓信は兵法に優れ人望も厚かったことから、どうにか監視下に置かないといつ反逆するかもわからないという不安がありました。

 

しかし、それでも劉邦は諸侯に対する態度を軟化せざるを得ませんでした。

 

 

垓下の戦いの前、劉邦はまず単独で項羽を攻めようとしましたが敵いませんでした。

その背景には韓信が劉邦に恩賞を反故にされたことで援軍を渋ったことがありました。

 

 

垓下の戦いでは韓信の援軍を得ることが出来たために項羽を滅ぼすことに成功しました。

 

 

劉邦が皇帝に即位したとき、漢王劉邦を皇帝に推戴したのは楚王韓信・梁王彭越・淮南王英布といった諸侯王です。

つまり、この時点では項羽が覇王となった時の情勢とその実変わりません。

 

しかし、そこから劉邦は諸侯王に難癖をつけては謀反を誘発させて次々に粛清し、ついに皇帝権力による専制を確立することに成功するのです。

 

こうした政治体制には、蕭何がいち早く収集した秦の法律や政治の記録が活かされていたと伝わります。

 

 

劉邦の最終目標は、秦の政治路線を踏襲した中長期的な中央集権だったのです。

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項羽・劉邦、彼らの命運を分けたものとは?

一時は項羽に追い詰められながら、一瞬のスキを見逃さずにたった1回の勝利で天下を掴んだ劉邦。

 

項羽は垓下の戦いで味方が次々と離反していく中で、寵愛していた虞美人に対してこのようにつぶやきました。

「私の力は山を抜くほどで、気は世を覆うほどだった。しかし、今時勢は私に不利であり、愛馬の騅も進もうとしない。これでは私はどうすることもできない。虞や虞や汝をいかんせん。」

 

 

項羽は幼少期からその強さゆえに自身がここまで絶望的な敗北に接したことがなかったのでしょうか?

 

確かに垓下での敗北で、項羽は全てを失うことになります。

 

しかし、それまでは何処へ行っても勝ち気で尊大な項羽がこうも人間臭く弱気な言葉を吐くことに、どこか負け慣れてないゆえの弱みを感じます。

 

 

劉邦は幾度も負けておきながらその度に最善の方法を考え続けていました。

彼は皇帝となった後、卑賎の身から成り上がった臣下の規範を高めるために大嫌いだった儒教を取り入れることにしました。

 

彼の中には、好き嫌いよりもいかにして最善の方法をあぶりだすかが一番だったのでしょう。

 

 

項羽と劉邦、彼らの命運を分けたのは時代の趨勢もありますが、案外土壇場でのど根性だったのかもしれません。

 

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