秦の始皇帝の名前と歴史と暗殺の謎について

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中国の歴史について、高校の世界史で初めに学んだ人物はおそらく大半の人が始皇帝と答えるでしょう。

 

始皇帝については昔から多くの物語が作られ、また博物館等では幾度も企画展のテーマとして挙げられてきました。

それゆえ、始皇帝については既に多くの人がご存知の事でしょう。

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しかし、よく知っているであろう事でも調べるとどんどん新しい事が出てくるのが歴史の面白い所です。

 

それに、歴史に関してはあまりよくわからないという人も昨今は漫画やゲームで詳しくなれる下地が出来ているのが近年の世の中です。

 

 

そこで今回は、秦の始皇帝と彼から始まった中国の皇帝の歴史についてお話ししようと思います。

 

秦の始皇帝の名前は?

始皇帝という呼び方は、彼の死後に中国最初の皇帝としてつけられた称号です。

 

 

 

彼自身は生涯を通じて『皇帝』を名乗っていました。

 

しかし皇帝はあくまで肩書です。

 

では彼の本名は何というのでしょうか?

 

まずはこちらの動画をご覧ください。

原泰久氏の『キングダム』では、姓は嬴、名は政。

 

 

つまり嬴政(えいせい)という名前で始皇帝が登場しています。

 

その他の創作作品でも基本的には嬴政という名前が用いられています。

始皇帝の本名は嬴政ということになります。

 

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しかし、原典の歴史書である『史記』の始皇帝について書かれた秦始皇本紀には、趙政(ちょうせい)という名前が記されています。

これには、始皇帝の前章である秦本紀についてその詳細が記されています。

 

それによれば、伝説時代に大費(だいひ)という人物が舜(しゅん)から嬴の姓を賜ったことが嬴姓の始まりだとされています。

 

 

その後、周王朝の時代に子孫の造父(ぞうほ)が趙城に任じられたことからその子孫は趙氏を名乗ることとなります。

 

その子孫の中に、非子(ひし)という人物がいました。

彼は周の孝王の時代に馬の生産で功績を挙げたことから秦の地と公の位を与えられます。

 

これが秦王朝の直接の起源ということで、秦の歴史は非子から始まるということになります。

 

 

『史記』の編者司馬遷は、「秦の遠祖は嬴氏であるが、直接の祖先は造父であり趙氏である。ゆえに秦の国姓は趙氏が正しい。」としています。

これを日本で例えると、安芸の毛利氏は毛利荘という名前の荘園から取った氏であり、本姓は祖先が大江広元であることから大江であるというのと似ているでしょう。

 

 

しかし、非子以降の主君達は皆嬴氏を名乗っていることから彼らの名前はあくまで嬴が正統だと考えるべきでしょうか。

 

 

始皇帝=趙政のもう一つの由来は、始皇帝が生まれたのが趙の都邯鄲(かんたん)であること、そして母が趙姫であること。

 

つまり、趙の地にゆかりのある出生から呼ばれたということです。

 

 

武田信玄の後継者、武田勝頼は母が諏訪の出身であったことから諏訪勝頼と名乗っていた時期があったのと同じ理論でしょう。

 

彼の近親である曾祖父、祖父、そして父は史書によると皆趙氏を名乗ったことはありません。

そして始皇帝の息子達も趙を名乗ったという記述は今のところ一切ないようです。

 

 

始皇帝の出生に話を絡めると、彼が生まれた時の主君は曾祖父の昭襄王でした。

 

祖父の孝文王は曾祖父からすれば数多いる王子の1人に過ぎず、その祖父の子である父も20人以上いる子供の1人に過ぎず、趙へ人質として送られていました。

 

始皇帝が生まれた時も、曾祖父は別に彼らの存在を気にする様子もなく趙に攻撃を仕掛けており危うく殺されかけているような状態でした。

 

 

しかし、それから数年経つと一転して祖父、父が秦王を継いだので始皇帝もまた世継ぎになることができました。

そして父が死ぬと僅か13歳で秦王となりました。

 

もしかしたら、この時に主君として嬴政を名乗るようになったのかもしれませんね。

 

 

私の見解としては、生まれた時は趙政でしたが、王となった際に国姓である嬴に改姓して嬴政と名乗ったと考えます。

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秦の始皇帝の歴史とは?

先述した通り、始皇帝の生い立ちは波乱万丈でした。

キングダムと中国の歴史!史実を解説!でも詳しくお伝えしましたね。

 

有名な話として、始皇帝は父である荘襄王の子ではなく宰相の呂不韋の隠し子であるという説が『史記』が記された時代から流布しています。

 

まあ、真偽はさておき本来ならとても後継者となれるような立場にいなかったのは本当のところです。

 

 

さて、荘襄王が主君となると趙に人質として残されていた嬴政もまた秦に連れ戻されます。

そして父が死去すると、僅か13歳で秦王となりました。

 

 

しかし、少年の彼に権限はなく実際は宰相の呂不韋が実権を握っていました。

 

呂不韋は趙姫の元主人であったことから密かに趙姫と関係を持っていましたが、それを警戒して嫪毐(ろうあい)という男を宦官に仕立てて趙姫を彼に預けました。

嫪毐は趙姫との間に2人の子供を儲けてしまいます。

 

これがきっかけで、嫪毐は自分の立場が危うくなることを恐れて嬴政に反乱を起こすことを企図しました。

 

 

しかし、これが事前に漏れて嬴政はあっという間に嫪毐を滅ぼし、次いで嫪毐を登用した罪で呂不韋を失脚、そして自害に追い込みます。

 

こうして、嬴政はやっとの思いで親政を始めることとなるのです。

 

 

それ以降の嬴政は、既に祖先が築いた基盤をもとに戦国七雄(秦・燕・斉・楚・趙・魏・韓)を滅ぼし天下統一を本格的に計画・実行に移します。

特に、趙を滅ぼした際にはかつて自分を虐げた者達への恨みから関係者を皆生き埋めにしたと伝わります。

 

 

秦は元々辺境の一諸侯に過ぎませんでしたが、富国強兵を目指す上で他国出身者を頻繁に登用していきました。

 

急速に国力を発展させようとする秦を警戒して、その他の国々は経済テロや刺客を次々と送っていきますが、秦はそれを逆手にとって逆に国力の発展と他国を滅ぼす大義名分を手に入れ、瞬く間に領土を拡大していきます。

 

そしてB.C221年、最後の一国である斉を滅ぼしてついに天下統一を完成させました。

 

 

天下統一を成し遂げた秦王は、王を越える新たな名号を定めるよう群臣に議論させました。

こうして生まれたのが『皇帝』、つまり始皇帝誕生の瞬間でした。

 

 

始皇帝はそれまでの諸侯による連合体としての統治体制から法による厳しい統治に切り替えることを行いました。

 

各地でまちまちだった度量衡や文字、貨幣単位の統一など、全てを秦の基準に切り替えていき天下に秦の影響力を及ぼすことに専心しました。

 

 

天下統一を果たしたとはいえ、中国大陸を一歩出れば異民族がまだまだ自分の支配下に収まらずに生活を続けている。

そう考えた始皇帝はさらに上を目指すべく次々と兵を導入し続けました。

 

 

天下統一という偉業を成し遂げた始皇帝は、自分を特別な存在だと思い不老不死を望むようになります。

 

彼が遠征の傍らで行ったのは、全国に自分の威光を示す天下巡行、聖地泰山にて天に偉業を報告する封禅(ほうぜん)、そして不老不死の仙丹を探させることでした。

 

このような事を続けているうちに、始皇帝は人間不信をこじらせ自分で毎日決まった書類を採決するようになります。

 

 

そして不老不死の薬と信じていた水銀を口にすることで精神疾患を患うようになり、言い訳ばかりでいつまでも仙丹を作り出せない方士や法治に反論する書生達を生き埋めにしました。

 

彼の暴走はついに息子である扶蘇ですらも諫言するようになりますが、始皇帝はそれさえも退けて扶蘇を辺境に追放してしまいます。

 

 

B.C210年、第5回目の巡行中に彼は人知れず車の中で生涯を終えました。

 

彼の死は宦官の趙高によって政治的に利用され、秦は瞬く間に国力を損ないます。

 

 

そして、項羽や劉邦といった英傑達の活躍で秦は始皇帝の死後4年で滅亡するのです。

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秦の始皇帝は暗殺されたのか?

秦の始皇帝は、『史記』によれば最低でも4回は暗殺の危機に遭っています。

 

1回目はかの有名な燕と荊軻による暗殺未遂です。

こちらに関してはあまりにも有名であるため詳細は除外しますが、残る3回はいずれも彼が皇帝になってからの話です。

 

 

2回目は高漸離(こうぜんり)という男によってもたらされました。

 

彼は元々荊軻の友でしたが、荊軻が殺されると隠遁して身を隠していました。

彼は筑(ちく)という弦楽器の名手であったことから演奏で再び世に知られるようになり、始皇帝は彼の演奏を聞きたくて彼を都の咸陽に呼び出します。

 

 

しかし彼もまた自分の命を狙っていたことを知っていたため、用心のために高漸離の目をつぶして演奏させました。

果たして高漸離は鉛を仕込ませた筑を演奏中に投げつけてきましたが、目が見えないために的が外れてしまいまたしても暗殺は失敗に終わりました。

 

勿論、高漸離は即刻処刑されました。

 

 

3回目は第2回の天下巡行の時です。

 

山東から河北にかけてようやく秦の影響力が及び始めた頃、始皇帝はそれらの地域に巡行に行きました。

 

 

その時、博狼沙(はくろうさ)という場所に差し掛かった一行に向かって、およそ30kgの鉄錐が飛んできました。

 

幸いにも始皇帝の馬車ではなく別の馬車に命中したので始皇帝に被害はありませんでしたが、始皇帝の怒りは計り知れません。

すぐさま天下に犯人の捜索を触れ回りましたが、10日間に渡る調査の結果犯人は見つかりませんでした。

 

 

『史記』によれば、犯人は後に劉邦に仕えることになる張良であり、逃亡した張良は後に老人から兵法を教わり大いに活躍することになります。

 

張良の家系は代々韓の宰相であることから、母国の仇として始皇帝を狙った事になります。

 

 

秦始皇本紀には「盗賊が襲ってきたが、犯人は10日間探した結果見つからなかった。」と記されており、犯人が張良だというのは張良側の記述です。

真偽はいかほどのものでしょうか?

 

 

4回目はそれから2年後のこと、咸陽で密かに夜に外出した始皇帝は蘭地という場所で盗賊に遭い苦しめられました。

側にいた衛士4人が盗賊を打ち倒したことでどうにか難を逃れましたが、やはり始皇帝の怒りはこんなことでは収まりません。

 

再び全国で犯人を探しまわりましたが、20日間の調査の結果犯人は見つかりませんでした。

 

 

これだけ暗殺の危機に直面していながら、彼は悪運強く命を長らえてきました。

 

そんな彼が人知れず死を遂げたのには、暗殺のキーワードが出てきても不思議ではないでしょう。

 

 

しかし、それ以前に彼は不老不死を目指して水銀を服用していたために水銀中毒でした。

そうでなくても彼の死はそう遠くないことだったでしょう。

 

これは想像でしかないのですが、もしかしたら暗殺未遂とは別に始皇帝は死への恐怖から常に自分がいつ死んでもおかしくないと感じていたのかもしれません。

それは不老不死を願うほど不安として強まっていたでしょう。

 

 

つまり、そうした疑心暗鬼から度重なる暗殺未遂や民衆への不満を自ら呼び込んだのかもしれません。

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中華帝国に受け継がれた、始皇帝の遺産

始皇帝の死後、秦はあっという間に滅んでしまいます。

 

しかし、秦の次にできた漢はそれ以降の中華帝国達に神のように崇められるようになります。

漢字、漢文、漢語(中国語)、漢詩、漢学・・・・中国は漢王朝にて生まれたと考える人が殆どでしょう。

 

ですが、その漢が参考にしたのは他ならない秦です。

 

劉邦が諸侯に先んじて咸陽に入った際、その腹心である蕭何(しょうか)は有り余る金銀財宝や美女には目もくれず真っ先に書庫に足を運び、秦の法律や行政記録を全て持ち帰りました。

 

 

こうして生み出されたのが、秦で行われていた郡県制(巡り巡って現在の行政区画にまで受け継がれている)、度量衡等の統一、貨幣単位といった秦の政治の全てを模倣とした漢の政治でした。

そして、『皇帝』の名号と統一王朝という概念も長い歴史の中で受け継がれていきました。

 

 

始皇帝は元々『皇帝』という名号を自分を一世として、二世、三世・・・と永遠に続けていくことを願っていました。

 

 

しかし、二世皇帝の死後秦は一旦王国に戻されてしまいます。

次に皇帝が現れるのは劉邦が漢を建国してからでした。

 

漢以後の王朝では二世、三世・・・ではなく恵帝、文帝、景帝、武帝・・・というように生前の業績を評価して諡(おくりな)をつけて呼ぶようになりました。

これは皇帝誕生以前に先代の王にその行いを評価して諡をつける習慣を踏襲したもので、ここからも秦の発想は当時からすればかなり異端だったことがわかります。

 

 

それゆえに、民衆や生き残った諸侯王からの反発も半端ではなかったのでしょう。

 

ですが、始皇帝の斬新な発想がなければ統一王朝という発想がなかったのも事実でしょう。

 

 

始皇帝の遺産はこうして現在を生きる私達に、政治や経済、そして歴史という時間の流れでいつまでも続いていくのです。

 

 

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  1. 2016年 4月28日

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