関羽の身長と死と曹操との意外な関係とは?

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英雄がひしめく三国志の中でも、一・二を争うほどの知名度を持っている関羽

 

戦いにめっぽう強かった、とか、義理人情に厚かった、と漠然とした事実を知っている人は多いでしょう。

 

一騎打ちで数々の猛将を討ち取ったことも知られています。

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一介の武将としては申し分ない実力を持った関羽ですが、彼は同時に劉備率いる傭兵軍閥のナンバー2でもありました。

まあ軍閥のナンバー2と言えば、武勇に事欠くような人物では勤まらないので関羽もやはり猛将としてかなり優秀な人物だったのでしょう。

 

 

では、関羽は劉備軍ではどのような立場にいて、どういった影響をこの時代に与えたのでしょうか?

関羽の身長

小説『三国志演義』では、関羽が初登場した際にその風貌について「身の丈は9尺、髭は2尺、熟した棗のような赤い顔」と表現しています。

 

今日、中華街や関羽にまつわる遺跡・名勝で見ることができる関羽の姿はおおむねこの表現の通りとなっています。

 

この関羽ですね。

劉備・関羽・張飛の三兄弟の知名度を飛躍的に上げた『三国志演義』の影響が今でも強く残っている、ということです。

 

ここで気になるのは、9尺、2尺と表現されている、「尺」という単位です。

 

『三国志演義』が記されたのは、彼らが生きた時代からおよそ1100年も経った明の時代、この頃は1尺あたり31.1cmはありました。

単純にこれを計算すると、31.1×9=279.9cmという数になります。

およそ3m、正真正銘の巨人です。

 

 

対照的に小柄だと記されていた曹操は7尺余りの身長でした。

これを明代の尺度にあてはめると、31.1×7=217.7cm、はい、どこが小柄なのかと首をかしげたくなる結果が出ました。

 

 

実はこれにはからくりがあり、明代とはいっても『三国志演義』は後漢~三国時代の史実に沿って記されていました。

 

俗に「七実三虚(七割の事実に三割のフィクション)」と言われているこの超大作は、登場人物の設定や沿革に大なり小なりの脚色があっても、度量衡に関しては史実をしっかりと考証していたとみるべきです。

 

 

中国の尺度は、時代が下るにつれて長くなっていきます。

後漢~三国時代では、1尺あたり23.04cmにまで縮まります。

これを当てはめると、関羽の身長は23.04×9=207.36cm、対して小柄の曹操は23.04×7=161.28cm、確かに男性としては少し背が低いかもしれません。

 

 

当時の平均身長はだいたい170cmくらいだったと言われているので、これなら関羽が身長2m程度の大男だとしても、まあ常識の範囲内でしょう。

 

 

では、正史『三国志』の関羽はどのように描写されているのでしょう。

実は、彼の風貌に対する記述は一切ありません。

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『史記』『漢書』では、高祖劉邦に72のほくろがあったであったり、その子孫である8代皇帝・昭帝は母親が妊娠14ヶ月で生まれたというエピソードがあったりと、何かと神格化されるようなエピソードがあるものです。

 

 

しかし、関羽にはそうしたエピソードは一切残されていません。

 

冒頭でお話しした彼の姿は、写真もない時代に多くの人が想像した姿を描いたものなのでしょうか?

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関羽の死に方

関羽は早くから、劉備が不在の際には代わって太守の任を務めたり別行動をとったりと張飛らその他の臣下と比べても統率者としての立場にある期間が長かったようです。

 

長じては赤壁の戦いの後に劉備が成都に拠点を移すと、荊州全域の統括を任されるようになります。

 

 

劉備はそれから数年間は漢中平定に全力を注いでおり、荊州に関しては時々援軍を送ったりはするものの基本的には関羽に委任していました。

 

 

劉備が漢中で曹操とガチンコ勝負をしていた頃、関羽も荊州から魏に対して攻撃を仕掛けようとしていました。

折しも、荊州では魏に対する反乱が起きていました。

反乱自体は曹仁によって迅速に鎮圧されましたが、動揺を完全に抑えることはできず、関羽はこれに乗じて曹仁が籠る樊城を包囲します。

 

 

龐徳の放った矢を額で受け止めたとか、矢の毒を除くために骨を削らせたとかいうエピソードはこの時のものですが、創作でしょう。

当時、本拠地である江陵の守備は麋芳や士仁に任せていました。

 

 

しかし、麋芳や士仁はかねてから関羽とはとても不仲でした。

この時、麋芳や士仁は仕事に関して失敗をしていたようですが、関羽は出立に際し、本人達の目の前で「この戦が終わったら、お前らまとめて処罰してやるからよーく覚えておけ!!」を言い放ったそうです。

 

こう言われては、勝っても負けても地獄の彼らが大人しく城で指をくわえて関羽を待っているはずはありません。

 

 

江陵は劉備との同盟を秘密裏に破棄した孫権の軍勢によってあっさりと降伏し、関羽は帰る場所を失います。

一方、関羽の戦況も思わしくありませんでした。

 

当初は龐徳を討ち取り于禁を捕らえるなど善戦していましたが、勢いに乗じて漢中にも援軍を頼みましたが断られました。

 

 

それに曹仁が不利な戦況をじ~っと耐え抜くと、次第に形勢が魏に傾いてきます。

 

同時に、呉の指揮官だった呂蒙が病気と偽って任地を去り後任に蜀では無名の陸遜が赴任すると、陸遜は関羽をおだてるだけおだてて油断を誘いました。

 

 

麋芳らが降ったのは、こうして本拠地からどんどん前線に兵を送って殆どもぬけの殻となっていた時でした。

やがて関羽は魏・呉の両軍から挟み撃ちにされ、樊城を落とすことも出来ずに逃げるしかありませんでした。

 

関羽はまさか孫権が自分達を裏切っていたとは夢にも思っていなかったため、撤退中に何度も呂蒙に連絡を取ろうとしましたが、呂蒙はわざと関羽軍の将兵の妻子を捕虜としていることを告げ、その度ごとに関羽軍の将兵は離散してしまい、関羽もそれを引き留めることはできませんでした。

 

 

そのうち、孫権が自ら軍を率いて来ることを聞いた関羽は麦城に引きこもります。

そこに孫権から降伏勧告の使者が訪れると、関羽は観念したふりをして一度は捕虜となりました。

 

しかし、本心では孫権に降る気などさらさらなかった関羽は息子・関平と共に逃亡を図ります。

逃亡空しくあっさりと呉軍に発見された関羽は、その場で斬首となりました。

 

 

直接戦闘の場で寝返った麋芳や士仁はもちろん、漢中で援軍の依頼を受けていた劉封や孟達、それに荊州の人士達と方々から支援を受けられずに散った関羽の最期は、軍人とは程遠い情けない姿でした。

 

 

正史『三国志』の評価では、「関羽は目下には優しかったが、目上に士大夫達には絶対に心を許さないプライドの持ち主だった。」とあります。

実際、成都にいた士大夫の中には関羽を快く思わない人もいたようです。

そのせいか、関羽の子・関興は父と同じく荊州に赴任することになります。

 

 

関羽が荊州を任されていたのは、長ずるに従って劉備ですら制御が効かないほど傲慢になった関羽を、ある意味「もう好きにして!」と半独立勢力化させることでどうにか有効に関羽を活かそうとした苦慮なのかもしれません。

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関羽と曹操

関羽の知名度は、劉備軍だけでなく曹操や孫権も震えあがるほどでした。

 

特に曹操とは、劉備が一時袁紹の元に身を寄せた際に自ら曹操に仕えたことがあるのは有名です。

この際、関羽は張遼らと共に袁紹軍の顔良を討ち取り曹操軍の窮地を救うと、命を救ってくれた恩を返したとして曹操からもらった褒美を全て丁重に送り返して劉備の元に帰ってしまいました。

 

 

曹操は「あのような義理に厚い人物を無理やり連れ戻す必要はない」として彼をあえてとどめずに見送り、劉備に対する忠誠を認めています。

 

 

この話だけを見ると、関羽と曹操の関係は敵味方を超えた友情にも似たものだと例えることができるでしょう。

 

しかし、それ以前の出来事として関羽と曹操の面白い出来事もあります。

 

 

官渡の戦いから2年前、曹操・劉備が滅ぼした呂布の元配下に秦宜禄という武将がいました。

彼自身はさほど高い官職に就いていたわけではありませんが、その妻である杜氏は素晴らしい美貌の持ち主でした。

 

関羽は杜氏の噂を聞いて自分の妻として娶りたいと曹操に願い出ました。

当初はそれを受諾していましたが、曹操はいざ自分が杜氏を間近で見ると前言を180度撤回し、自分の側室にしてしまいました。

 

これに対する関羽の反応は何も残されてはいませんが、普通に考えると曹操憎し!の一言に尽きるのではないでしょうか?

 

 

まあ、敗軍の将の奥方は物扱いもいいところですが・・・。

 

そんな約束違反の恨みもあってかあらずか、関羽は一生曹操の下にいたいとはとても思ってなかったみたいです。

 

 

その後の関羽・曹操は特に直接交流していたような描写はなく、元通り敵同士になっています(但し、張遼や徐晃は関羽と交流が続いていたらしいですが)。

 

 

樊城の戦いの時、関羽は成都にいる劉備とは違い曹操がいる許を直接狙える場所にいました。

曹操は関羽軍の勢いが凄まじかったために許から遷都を考えてしまうほどでした。

 

 

折しも、魏では反乱が曹操に対する反乱が起きており混乱していたため、曹操はとても心細かったようです。

 

しかし、当時曹丕の側近だった司馬懿らの献策で呉と手を組むことを画策すると、戦況は次第に関羽にとって不利な事態になっていきました。

 

 

この時、関羽に追い打ちをかけようと援軍に赴いたのが関羽との親交深い徐晃でした。

一方、合肥にいた張遼も関羽への備えとして軍勢を荊州にまで近づけています。

 

 

関羽の最期に、曹操を初め関羽と関係の深かった人物達が多く関わる事になるのは、どこかドラマチックですね。

 

なお、呉軍に討たれた関羽の首は曹操の元に送られました。

曹操は関羽の首を諸侯の礼をもって埋葬し、丁重に弔いました。

 

 

それから間もなく曹操自身も亡くなります。

 

三国志はロマンが多いですよね。
キングダムと中国の歴史!史実を解説!では漫画キングダムの時代について詳しくお伝えしました。

 

それでは今回の内容をおさらいしておきましょう。

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関羽伝説と存在意義〜まとめ〜

卓越した武勇を将才を持ちながら、最期は宿敵やライバル、そして同僚達からも見放されて生涯を終えた関羽。

 

彼の死後、時代はどのように動いていったのかをもう一度振り返ってみましょう。

 

 

関羽の死後間もなく曹操が亡くなり、曹丕によって後漢は滅亡しました。

 

魏では曹操時代に積極的に行っていた外征の規模を一旦縮小させ、次第に豪族が台頭する国家体制を築き上げていきます。

蜀では関羽に続いて黄忠、法正、麋竺、劉封、張飛、馬超、そして劉備と主要人物が次々と亡くなっていき、諸葛亮によって政治家が主導する国に変質していきます。

 

 

呉でも魏や蜀が相次いで皇帝即位を行うとそれに従って文武百官を任命して、それまでの軍閥から名実ともに「中華帝国」に変化していきます。

 

荊州での係争は、関羽の死によって支配権が安定してくると段々と無くなっていきます。

樊城の戦いは、関羽を中心に魏・呉・蜀が一堂に会して戦う数少ない機会でした。

 

 

しかし、これ以降は魏vs呉・蜀という構図が容易くは崩れなくなり、国の形が変わるのに合わせて戦の質も単純な勝敗や領地の切り貼りだけでは語れない複雑なものになっていくのです。

 

 

関羽自身は乱世においてその名を一番輝かせる存在でした。

 

彼の死は、同時に後漢以来の動乱の時代に一旦引導を渡し本当の意味で「三国時代」をスタートさせたのです。

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